島根大学医学部整形外科学教室
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教授室より

故廣谷速人名誉教授追悼文

島根大学医学部整形外科学教室 教授
内尾祐司

 島根大学名誉教授・廣谷速人先生におかれましては、平成25年2月10日ご逝去されました。故廣谷先生のご遺徳を偲び、ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 先生は、昭和28年に京都大学医学部をご卒業され、京都大学医学部副手、国立山中病院医師,京都大学医学部助手、国立姫路病院医長,京都大学医学部講師、同助教授を経て、昭和54年4月に島根医科大学整形外科学初代教授に就任されました。平成7年3月に島根医科大学を定年にて退官されましたが、16年の長きに亘り、教育、研究および診療にご尽力されますとともに同大学の評議員を二期お務めになり、大学発展のために貢献されました。
 先生は教育者及び学術研究者として、医学生・若手臨床医の教育に心を砕く一方、飽くなき探求心を持って整形外科学研究を推進されました。とくに、軟骨代謝や末梢神経障害の基礎および臨床研究の分野で著明な業績をあげられるとともに多くの研究者・臨床医を育成され、整形外科学の発展に貢献されました。また、整形外科臨床医として地域医療体制の確立・充実や身体障害者認定に尽力されますとともに、大学行政の管理者として評議員、手術部長、医学部附属病院外科総括者、医学部附属病院理学療法部長等の要職をお務めになり、大学の医学・医療の振興・発展に寄与されました。これら、多年の教育、研究、臨床医療及び大学行政全般にわたるご功績に対して、平成7年4月には島根医科大学(現島根大学)から名誉教授の称号を授与されました。
 しかし、先生がこれまで拓いてこられた医学・医療の道は決して易きものではありませんでした。初代整形外科学教授として赴任された島根医科大学開校時には設備も不十分で教室員も極めて少なかった中、整形外科学の礎を築くために、いかに不屈の精神と不断の努力が必要であったろうかと推測いたします。とりわけ、将来整形外科医となる若手医師の教育には情熱を傾け、彼らの医学における科学的探求心を育むと同時に、臨床医として医療に対する心構えを熱心に説かれました。ともすれば臨床知識や技術の習得のみになりがちになる若手医師に対して、科学探求心を持った臨床医としての道を示し、その人間的成長を促されました。学問や研究に妥協を許さない態度は一貫しておられ、先生のある論文では19世紀末の原著までも繙いておられました。私どもが論文作成時に抄録や論文の孫引きでお茶を濁そうとしたり、実験での標本プレパラートづくりやカルテ記載に手を抜こうとしたりしようものなら烈火のごとく、『手を抜くな』とよく叱責されました。大概、手を抜きそうなところを先生はご存じで、隠そうとすればするほど指摘されたものです。先生は学問が生来お好きで、『勉強というけれど、わしは勉楽じゃ。』とよくおっしゃっていました。このことは退官後も京都大学整形外科学初代教授 松岡道治先生のことを調べるために国立国会図書館や同関西館にも足繁く通って日本医史学雑誌等に論文を精力的に執筆されていたというエピソードからもうかがえます。先生の学問や研究に妥協を許さないその峻厳な態度は、医師としての在り方を説かれるときも同じであり、私自身、先生と衝突したこともありました。しかし、この年になって、この職になって、先生がおっしゃっていた言葉の意味に初めて気がつくことも多いのです。今の私がいますのも、先生のお陰無くしてはありえません。
 廣谷先生が教授室に掲げておられた『学而不思則罔、思而不学則殆』の掛け軸は、先生の恩師、京都大学名誉教授 伊藤弘先生が病床でお書きになり先生に贈られたものであるということを、先生が亡くなってから奥様より初めて伺いました。先生の学問に傾けた情熱とそのご遺志は私どもが継承し後進に伝えて参ります。そして、病める人々を救う医学・医療をさらに発展させるべく日々精進していく所存でございます。
 恩師 廣谷先生のご遺影にお誓い致しますとともに、先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

合掌



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